三昧(ざんまい)は
古代のサンスクリット語で
現代には似た言葉はありません
三昧の動画をつくるには
根本的な難しさがあります
三昧は マインドのレベルで伝えられない
あるものを示すのです
この動画は 私自身の内なる旅を
ただ外に表現しているだけで
三昧について教えようとか マインドに
情報を提供しようとかいうつもりはなく
あなたが直接 自分の本質を発見するよう
インスピレーションを与えたいと思います
三昧は今
かつてなかったほど関連性があります
私たちは三昧を忘れただけでなく
何を忘れたのか思い出せないという
歴史の一点に立っています
この忘却はマーヤーといい
自己の幻影を指します
人間として 私たちは大抵 日々に追われ
自分が誰なのか
何故ここにいるのか どこへ行くのか
ほとんど考えもしません
大抵の人は真の自己 つまり魂あるいは
ブッダが「無我」と呼んだもの
名前や形を超越し 思考を超越したもの
を悟ったことはありません
その結果 自分は
この限られた肉体であると信じています
気づく気づかないに関わらず
回りが自己として識別する
この限られた自分の肉体構造は死ぬのだと
私たちは怖れながら生きています
今日の世界では
宗教や ヨガ、祈り、瞑想、読経
あるいは他の習慣などの
スピリチュアルな修行に携わる大多数が
条件づけられたテクニックを用います
つまり自我の構築の一部だということです
探求したり活動したりは問題ではありません
外部の形式に答えを見いだした思考が
問題なのです
一般的な形のスピリチュアリティ―は
どこにでもある病的な考えと
なんら変わりません
マインドをさらにかき立てることです
人としての存在に対し
もっと人の行動に関わります
自我の構築は 金を力を愛を
何もかもを さらに欲しがります
いわゆるスピリチュアルな道をたどる人は
さらにスピリチュアルに、さらに目覚め、
さらに落ち着き、平安、悟りを欲しがります
この動画を見る危険性は
マインドが三昧を欲しがるようになることです
さらに危険なのは
マインドが三昧を得たと思い込むことです
何かを得たいと望むときはいつも
自我の構築が働いていると思って
間違いありません
三昧は自分に何かを得たり
足したりすることではありません
三昧を悟るとは自分が死ぬ前に
死を学ぶことです
生と死は陰陽のようなもので
切り離せない連続体であり
果てしなく展開し
始まりも終わりもありません
死を追い払えば 生も追い払います
自分が誰なのか 真実をじかに体験すれば
もう生も死も怖くありません
社会や文化に自分が誰なのか教えられ
同時に私たちは
奥底に隠れた生理的な欲求と嫌悪に
選択を支配され 奴隷となっています
自我の構築は 反復しようとする衝動以外の
何ものでもありません
単にエネルギーが一度通った道を
また通ろうとする傾向なのです
その道が生命体に良かろうと悪かろうと
記憶やマインドには限りないレベルがあり
スパイラルの中にスパイラルが渦巻き
意識がこのマインドつまり自我の構築に
同調すると
私たちを社会条件に結びつけます
鋳型とも呼べるでしょう
自我には意識できる側面もありますが
無意識や昔の記憶や
原始体験に基づく恐れが
原動力になって
快楽を求めたり 苦痛を避けたり
病的な行動を昇華させたり...仕事や...
人間関係や...
確信、思考、そして生活全般にわたる
限りないパターンを後通ししているのです
家畜のように 殆どの人間は鋳型に人生を
はめて無抵抗に服従し 生き 死んでゆきます
狭いパターンに人生をくぎ付けにして生きます
人生はしばしば大変な苦悩に満ちていますが
実は 自由になれるのだということに
私たちは全く気がつきません
過去から引きずってきた人生を振り払って
内なる世界からの誕生を待っているほうの
人生を生きるのは可能なのです
私たちはこの世に生理的な条件つきの構造を
持って生まれましたが 自己意識はなく
よく小さな子供の目をのぞき込むと 自己の
かけらは少しもなく 空の輝きだけが見えます
育った人というのは
意識の上にかぶったマスクなのです
シェイクスピア曰く「この世はすべて一つの舞台
人間は男も女も すべて役者にすぎない」
目覚めた個人なら 意識が人格を通し
マスクを通して輝きます
あなたが目覚めると 演じる役柄で
識別されません
自分は 着けているマスクだとは
思いませんが
その役を演じるのを やめたりもしません
私たちが役柄または
自分のペルソナによって識別されるとき
それはマーヤー つまり自己の幻影です
三昧とは 人生の劇の中で演じる役という
夢から覚めることです
プラトンが『国家』を書いてから240年
たちますが
人類はいまだに
プラトンの洞窟から抜け出せずにいます
実際 私たちはかつてなかったほど
幻影にとらわれています
プラトンはソクラテスに 洞窟で鎖につながれ
岩壁を一生見て過ごした一団の人々について
説明させました
見えるものといえば 彼らの後ろで
焚火の前を通りすぎるものの影が映る
岩壁だけだったのです
この人形劇のようなものが
彼らの世界になりました
ソクラテスによれば
影たちは 囚人が現実を見ることに
最も近いものでした
外の世界のことを教えられても
囚人は 影たちしかいないのだと
信じ続けました
もっと他のものがあるのではと感じても
自分の見慣れたものを離れるのが
嫌だったのです
今日の人類は 洞穴の壁に映った影しか
見ていない人々のようです
影は私たちの思考を例えたものです
思考の世界は
私たちが知っている唯一の世界ですが
思考を超えた世界が他にあるのです
二面性のマインドを越えた世界が
洞窟を離れ
今まで知っていたものを離れ
あなたが本当は誰なのか 発見する意欲はありますか?
三昧を経験するには 注意を陰からそらし
思考から光へと注意を向ける必要があります
人が暗闇だけに慣れていたら
徐々に光に慣れていかなければなりません
新しい概念になれるときはいつもそうですが
時間と努力を要し
新しいものを探求し
古いものを脱ぎ捨てる意思を要します
マインドは 意識にとって罠に あるいは
迷路か牢獄にたとえられます
あなたが牢獄にいるのではなく
あなたが牢獄なのです
牢獄は幻影です
あなたが幻の自己として認識されれば
あなたは眠っているのです
いったん牢獄に気付いて
幻影から抜け出そうと戦えば
あなたは幻影を現実であるかのように扱い
まだ眠ったままで
ただ夢が悪夢になっただけです
永遠に影を追い
影から逃げ続けることになります
三昧とは 自分とは別の自己 つまり
自我の構築という夢から覚めることです
三昧とは 自分という牢獄との同一化から
覚めることです
あなたは実際 自由にはなれません
どこへ行こうと牢獄がありますから
目覚めはマインドつまり鋳型を捨てることでは
ありません その逆で
マインドと同一化していなければ
人生の劇をさらに充実して体験でき
劇を劇として楽しみ
渇望したり怖れたりしなくて済みます
古代の教えでは これをリーラの聖なる遊びと呼んでいました
二元性における遊びです
人間の意識は連続しています
極端に言えば
人間は物理的な自己として識別されます
別の極に三昧があり
それは自己を休止することです
連続の中で三昧に向けてたどる一歩一歩は
苦しみを和らげます
苦しみが和らぐとは
人生に苦痛がないという意味ではありません
三昧は苦痛と快楽の二元性を超越しています
それはマインドを減らすという意味であり
何が起ころうと それに対する自己の抵抗を
減らすのです 抵抗が苦しみをもたらすのです
三昧に一度でも気づけば
連続の果てに何があるか見えます
物質的な世界や自己の興味以外に
何かが存在するのを知ることです
自我の構造が実際 三昧のうちに休止するとき
利己的な考えはなく
自己も二元性もありませんが
私たるもの あるいは無我はまだ存在します
その無の中に智慧の夜明けがあります
つまり生まれようとしている自己は
二元性の劇をはるかに超え
連続すべてを越えたものと理解するのです
生まれようとする自己は無限で
変わらずいつでも今 存在します
悟りとは 基本原理のスパイラル
常に移ろい現れる世界
つまり時が開花するロータスと あなたという
永遠の存在とを合体させることです
あなたの内なる理解は
自己を識別しなくなるにつれ
常に開き続ける花のように育ち 時の世界と
無限との間で生きた架け橋となるのです
生まれようとしている自己にただ気付くのは
人の道の始まりにすぎません
大抵の人は瞑想中に何度も
三昧を経験しては失い それから
人生の他の局面に
三昧を取り入れることができます
瞑想や自問の中で 自己の本質に
深い洞察を得てから
また古いパターンに逆戻りし
自分が本当は
誰なのか忘れることは珍しくありません
静けさ あるいは空を
人生の全ての面で気づくのは
すべてのものごとで踊っている
空そのものになることです
静けさは動きから離れたものではありません
動きの逆ではありません
三昧において静けさは動きと同一視され
形は空と同一なのです
これはマインドには空論です
マインドは二元性に踏み込むという事ですから
ルネ・デカルトは西洋哲学の父で
『我思う、ゆえに我あり』という言葉で
有名です
これほどはっきり文明の崩壊と
洞窟の壁に映った影を全面的に認める
言葉はありません
デカルトの誤りは
ほぼ全人類の誤りと似ていて
根本的な存在を 思考と同じだとすることです
著名な論文の初めに デカルトは
ほぼすべてを疑うことができると書きました
自分の感覚や思考さえも
疑ってかかることができると
同じくカーマ・スートラでブッダは言いました
真実を確保するためには
人はすべての伝統、聖典、教え
また思考や感覚の内容を
疑わなければならないと
両者とも懐疑的な態度で出発しましたが
違いは デカルトの探求が思考レベルで
ブッダはさらに深く進んで
マインドの最深レベルを
突き抜けていったことです
もしデカルトが思考するマインドを越えて
いったら 自分の本質に気づいたかもしれず
西洋の意識は今日
全く違っていたかも知れません
その代わり デカルトは
悪霊が私たちを幻影の中に閉じ込めている
という可能性を述べていました
デカルトは悪霊の正体を認識しなかったのです
マトリックスという映画にあったように
私たちはみな複雑な仕組みにつながれて
幻の世界をむさぼっているのかも知れません
映画では 人類は仮想現実の中で
生きていながら 別のレベルでは
単なるバッテリーで
生命の力をマシンに提供していました
マシンは人類のエネルギーを
自分たちの計画に利用していたのです
人はいつも 自分の不幸や世界情勢を
自分以外のせいに
したがります
それが他人かグループ、国、宗教にせよ
デカントの悪霊のような 支配欲に満ちた
啓蒙主義者にせよ マトリックスに登場する
意識を持つマシンにせよ
皮肉なことに デカントの提唱した悪霊こそ
彼自身を定義するもの
だったのです
三昧を悟ると 支配者がいて
マシンがいて 悪霊がいて
あなたの人生を日々
搾り取っているのがはっきりします
そのマシンとは あなたなのです
自己構造は無数の条件づけられた
下層プログラムというか小さなボスで成り立ち
あるボスは食物を渇望し
別のボスは金を 地位を パワーを
セックスを 親密な関係を渇望します
別のボスは意識を
あるいは他人の注意を欲しがります
欲求には限りがなく
満足させることはできません
私たちは時間とエネルギーをたくさん費やして
自分の牢獄を飾りたて 圧力に屈して
マスクをつけ 小さなボスに食物を与えて
さらにパワフルにしているのです
麻薬中毒者のように 小さなボスを満足
させようとすればするほど欲求が募るのです
自由への道は 自己改善でも 自己の目的を
どうにかして満たすことでもなく
自己の目的をきれいさっぱり
手放すことなのです
中には 真の自分に目覚めるとは
個性や人生の楽しみを失うことではないかと
心配する人もいます
実際はその逆が真実なのです
魂のユニークな個性化は
条件づけられた自己を乗り越えて
初めて表現できるのです
鋳型の中で眠っているため
殆どの人は 魂が何を表現したいのか
発見できずにいます
三昧への道には瞑想がかかわり
それは条件づけられ 変化する自己を観察し
変わることのないあなたの本質を
悟ることでもあります
自己の内の動かぬポイント
つまり存在の源に到達したら
外界をどう変えるべきか主張せず
さらに待ちます
自己の意志でなく さらに高い意思が成るよう
身を任せるのです
もしマインドが外界を変えて 道がこうある
べきだというある考えを確認しようとするなら
鏡に映った影を操作して
鏡のイメージを変えようとする
ようなものです
鏡のイメージに微笑ませるには 明らかに
鏡に映った影を操作できません
鏡の影の本物の源であるあなたに
気付かなければいけません
いったん本物の自己に気づくと
外界の何かを変える必要があると
いう意味ではありません
変わるのは意識であり知性であり
内なるエネルギー つまり生命力なのです
生命力が条件づけられたパターンから解放され
魂の指示を受けられるようになるのです
魂の目的に気づけるのは
条件づけられた自己とその果てしない追及を
見ながら その追及を手放せるときだけです
ギリシャ神話では 神々がシーシュポスに
無意味な作業を永遠に繰り返すよう
罰を与えたと伝えられています
その作業とは岩を山頂へ押し上げるのですが
岩はまた麓へ転がり落ちるのでした
フランスの実存主義者であり
ノーベル賞受賞作家 アルベール・カミュは
シーシュポスの境遇を
人類の比喩と見なしました
カミュは問いました 「このばかげた存在に
どんな意味を見出せるのか?」
人類は決して訪れぬ明日を築こうと
果てしなく労苦し
そして死んでゆきます
この真実を本当に悟れば
利己的なペルソナにつくなら気が狂うか
あるいは目覚めれば自由になるでしょう
外でもがいても決してうまく行きません
それは単に私たちの内なる世界を
反映しているだけですから
利己的な自我が 無益な追及を通して
目覚めに完全に失敗すると
宇宙の冗談 状況のばかばかしさが
明らかになります
禅にはこういう格言があります
「悟りの前は 薪を割り を汲み
悟りの後は 薪を割り 水を汲む」
悟る前に 人は丘の上へボールを
転がしていかなければなりませんが
悟った後も ボールを丘の上へ
転がさねばなりません
何が変わったのでしょう?
内側の抵抗が現状に変わるのです
あがきを放棄する というより
あがいていた人が幻影だと
気づくのです
個人または個人のマインドが 聖なる意思
またはさらに上のマインドと同調するのです
三昧とは究極的に内側の抵抗を放棄すること
移り変わる現象すべてに
例外なく
回りの状況にかかわらず
内なる平安を悟れる人は
本当の三昧を持っています
あなたが抵抗をやめるのは
ある事を容認するからではなく
自由を外側の条件に左右されないようにするためです
ここで注意するべきなのは 現実をあるがまま
受け入れるとき それは世界で行動を
起こすのを止めるという意味ではありません
でないと瞑想をする事なかれ主義者になります
実はその逆が真なのです
動機に駆られて行動しなくてもよくなれば
道にそって
ある限りのエネルギーを用い
全力で行動できるようになります
世界を変えて平和をもたらすためには
敵と見られるものと戦う必要があると
大勢が議論するでしょう
平和のために戦うのは 沈黙のために叫ぶ
ようなもので 望まないものをさらに生みます
最近は色々なことに戦いがあります
テロとの戦い 病気との戦い
飢えとの戦い
あらゆる戦いは 実は自己との戦いなのです
戦いは 集団の妄想の一部なのです
私たちは平和が欲しいと言いますが
戦争に携わる指導者を選出し続け
人権を支持すると言いながら
労働搾取工場で作られた製品を
買い続けます
クリーンな空気が欲しいと言いますが
汚染し続けます
科学にがん治療を望みながら
自分を病気に陥れるような
自滅的な習慣を変えようとしません
より良い人生を奨励していると
自分を欺いているのです
苦しみや殺戮を容認している
隠れた自分を見たくないのです
がんや飢え、テロまたは 何であれ自分の考えや行動からできた敵との戦いに勝てるという
思い込みは 実は
地球における暮らし方を変えなくてもいいと
自分自身を欺き続けるのです
内側の世界がまず革命を起こす必要のあるところなのです
内側で生命が好循環しているのを直接感じて
初めて 外の世界が道と
調和するようになるのです
その時まで 私たちのすることは マインドに
よって既につくられた混乱を悪化させます
戦争と平和は果てない舞い踊りの中で一緒に
起こります 二者は一つの連続体なのです
半分はもう一方が無ければ存在できないのです
光は闇がなければ存在できないように
上は下がなければ存在できないように
この世は闇のない光を
空を抜きにして満杯を
悲しみを抜きにして喜びを
欲しがっているように見えます
マインドが関わりあえば あうほど
この世は分裂していきます
利己的なマインドから来る解決策はどれも
問題が存在するという考えに駆られており
その解決策は 解決しようとしていた
問題よりもさらに大きな問題に発展します
あなたが抵抗するものは 引き続き存在します
人類の創意工夫は新しい抗生物質を作りますが
大自然はさらに巧妙になり
バクテリアは一段と強くなります
引き続く戦いで最善の努力を払うも
実際 がんはさらに広まるばかり
世界中で飢える人は確実に増えてゆき
テロの攻撃は世界中で増加の一途です
私たちのアプローチは
何が間違っているのでしょう?
ゲーテの詩『魔法使いの弟子』のように
私たちは偉大な力を手にしましたが
その力を使いこなす知恵を
持ち合わせていません
問題は 使っている道具を
私たちは理解していないのです
人のマインドと その適切な役割や目的を
理解していないのです
私たちが考え、感じ、人生を経験する
その限られ、条件づけられた処し方から
危機が生まれます
合理主義が
数ある古代文化の英知を認め経験する能力を
私たちから奪ってしまったのです
利己的な考えが 生命の深遠な神聖さ
生命の輝きを感じ
全く異なるレベルの意識を実現する能力を
奪い去ってしまったのです