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人間として生まれるのは、巨大な忘れ物をすること。
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条件付けられた精神は、私たちの真我を覆い隠し、
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私たちを分離、制限、疑惑の世界に陥れます。
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本当のあなたは誰?幸せを求め苦しみを避けながら
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人生を歩む、単に肉体に宿る精神なのでしょうか。
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それとも全く別な、もっと深くて永久的なものなのか。
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言葉では説明できない、発見すれば真の幸せと充実感を
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つかめる存在でしょうか。ここでは、精神のベールや、
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思考や、感覚を超越した、
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本当の自分を発見していきます。
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精神とは何か?古代より数えきれないほど
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何度も問われてきた質問です。人類の最も初期の
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精神的、科学的探究以来、人間の精神は様々な
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文化により概念化され、理解されてきました。
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人々は哲学や心理学、科学理論や直接的な調査方法
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で精神の秘密、つまり肉体や精神を超越した存在
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の謎を解こうとしました。精神は普通、脳など頭の
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中にある思考力や理解力だと考えますが、
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これより全然深く、二元性を持っています。
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「マーヤ」や幻影、エゴ(自我)とも呼ばれます。
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ラテン語でエゴは単に「私」を意味します。
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「私」という物体に自分を限定するのがマーヤで、
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限定しなければ、すべての現象が現れては消える
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意識自体に目覚め、別の「私」を認識しなくなります。
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「私」の本当の意味は、無限な認識や意識のことで、
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それがただひとつ存在する「私」です。ところが、
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私たちの自己意識が思考、イメージ、感情などの経験
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と深く絡み合っているため、自分自身を本質的に、
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本来あるがままに認識しません。経験を取り入れた、
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修正された形で認識します。無限の認識・意識
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である真我と、経験内容を合わせたものが自我や
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個別の自分という、幻影の自分を作り上げます。
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自我とは、自分は人間だという、非常に持続的で、
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非常に強く、非常に堅固な考えです。肉体と精神内
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の存在、あるいはただの肉体と精神だと考えます。
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自我は幼い頃から精神が形成した個別の自分です。
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自我は作り上げた存在で、現実ではなく、体と認識
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する部分、自分は個別だと思う精神の一部です。
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自我は個人的な私ですが、真我ではありません。
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頭の中で構成した私です。本来の私ではありません。
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本来の私はより深く、常にいる、根底にある存在です。
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二元性の精神は、目撃者と目撃されるものの2つの
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根本要素を持ちます。感覚、知覚、自我の好みで
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構成された世の現象があり、それとは別の「私」が
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目撃している感覚があります。覚醒とは、目撃者と
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目撃されるものの二元性に目覚め、主体と客体の間に
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存在する原始的な意識を自覚することです。
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幼い子供たちを観察しますと、自我がなく、常に
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参加者として生きています。世界から切り離されて
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いないために、爽快に生きています。
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私たちは生まれたときは依存的で、まだ概念的な思考を
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持っていません。成長するにつれ、概念と自己認識つまり
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自立するために自分の行動を振り返る能力を身につけます。
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この思考プロセスが内的アイデンティティになります。
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自我の形成は、誕生後すぐに始まります。私たちは、
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いずれ「私」と呼べるアイデンティティを築きます。
-
人間の発達における鏡像段階とは、生後 6~18か月
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頃で、子供が鏡に映った自分を認識する段階です。
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これは自我形成の一段階にすぎません。鏡に映った人物を
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認識して自我を得るのではなく、周囲の人々が自分を
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別の人間、別の「私」として扱う社会化プロセスです。
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体に生じる感覚、知覚と概念化を通じて「私」という
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感覚を覚えるようになります。精神は物事を分類して
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区別し、それらに対して好みを持つようになります。
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好きなものや、嫌いなものがあります。この「私」が、
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人生を歩む中で、個別で独自のアイデンティティになります。
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それは、私たちが自分だと思い込んでいる人物の物語です。
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私たちの意識はとても若いうちから、子供のうちからそれを
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信じ始め、それが私たちとともに成長し、自分が一人の人間
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であると確信するまで成長します。人間が成長し、思春期
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から成人になるにつれ、分離感つまり頭の中に住む「私」
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の感覚を覚えます。そして各々が物足りなさや不完全さに
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かられた個別の自我となり、その不完全さを埋め合わせる
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ために、物品を蓄積する欲望に支配される人生を送ります。
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あらゆる問題の原因は、精神です。精神には、
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すべてが別々であるという錯覚を作る力があります。
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自分が世に住む一人の人間であるという錯覚です。
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経験から立証できますが、心理的苦痛を経験するのは
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自分は別の人間、別の存在であるという信念から
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必ず生じます。例外は一つも、一つもありません。
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肉体的な苦痛は別ですが、精神的な苦痛を感じる必要
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は全くなく、自分が個別の精神や体だと信じ込むこと
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から生じます。なぜなら、私たちは分かれて散らばった
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パズルのピースのように、全体から切り離された断片
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に相当するからです。それで「何かが足りない」「何かが
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おかしい」と思います。精神は克服できない障害に見えます。
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どうすれば克服できるか。終わりなきものに思えます。
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精神を使って精神を克服するのは、自分のブートストラップ
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で自分を持ち上げようとする如く、終わりなき戦いです。
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自我の構造は打撃を受け、迷い、困惑し、人生に意味がない
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と感じます。そして、その探求心がもがくとき、十字架の
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聖ヨハネが「魂の暗夜」と名付けた状態を経験します。
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これは目覚める過程で必要なことです。探求をやめ、自分を
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探求者だと信じ込むのをやめれば、生命と一体化できます。
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私は良い人生を過ごしていました。精神的探求は何となく
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諦めていました。諦めたというか、これ以上探すものが
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なかったのです。悟りや覚醒を求めていた訳ではありません。
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平和と幸福を求めていたら、現状に身を委ねることが唯一の
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道であり、人生が私の師であることに気付きました。長年の
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探求の末、すべてが崩れました。自分と思っていた自我の
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構造が崩れました。居間に座っていたら、荒廃のような
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ものが私の中に生じ、それが数週間続きました。予想外
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の内的暗闇。見捨てられたような...生命そのものに
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見捨てられたような感覚でした。そして精神が、この
-
内的暗闇から脱出したがっていることに気付きました。
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自分に質問しました。「なぜ苦しむの?苦しみの本質は?
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どうすれば苦しみが終わるの?それとも終わらないの?」
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その末、たとえ自分が滅びても、今の状況や暗闇
-
から逃げず、身を委ねる意志が湧きました。
-
私が滅びることの意味は分かりませんでしたが、
-
まだ意識にない認識というか、その瞬間全く予想
-
なく、自分の構造が崩れました。「私」が死に、
-
私と生命を区別するそのものと結合しました。
-
それ以来、私と生命は別でなく一つだと知りました。
-
分別感を作るのは精神の動きです。それ以来、
-
自分を被害者だと思う「アモダ」の構造が、自分
-
を状況だけでなく感情や思考の被害者と感じ、
-
思考や感情をもっとポジティブで希望溢れるものに
-
変えて行こうという努力が終わりました。
-
被害者がいなくなり、生まれ変わったようでした。
-
死んでそのように生まれ変わりました。「アモダ」
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というアイデンティティの感覚のベールが、彼女
-
の歴史や思考や信念や経験が剝がれたようでした。
-
その瞬間から私は裸になり、今も変わりません。
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仏教の四諦の一つ目は、苦が存在することです。
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条件づけられた精神は本質的な不満を持ちます。
-
ドゥッカ、つまり精神の不満は、肉体や精神の
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苦痛以外に、万物の無常性や世俗的な追求で
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満足を得られないという微妙な不満も含みます。
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真の幸せや満足感は物質的追求から得られません。
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全てが計画通りに行っているようでも、善良な人間
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になれても、人間関係や仕事がうまく行っても、
-
まだ心の底で何か物足りなさをよく感じます。
-
何かを見逃しているか、うまく認識していないと
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感じ、それを追究することでより明確になります。
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覚醒の第一歩は、苦痛を認めることだと、私は
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よく言います。人生がうまく機能しないあるいは
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自分がうまく人生で機能できないと感じることです。
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不快ですが、その不快感のおかげで追究を決意し、
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想像を絶する世界に導かれるかもしれません。
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人はなぜ苦しむのでしょう?肉体的な苦痛の場合、
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それは遺伝的に受け継いだ保護装置だと言えます。
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痛みを経験しなければ、常に物にぶつかったり、
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硫酸を飲んだり、体は長持ちしないでしょう。
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心理的苦痛の意味は違います。「あなたは間違って
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いますよ」というものです。心理的苦痛は問題
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ではなく、解決の始まりです。心理的苦痛は、
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私たちが個別の人間だと信じ込む間違いを指摘
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しています。それは根本的な間違いで、原罪です。
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私たちをエデンの園から追放した、原罪です。
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「罪」は元々、「的を外す」という意味です。
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自我意識は、常に的を外す病的な心理状態です。
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これが「堕落」の意味です。私たちは善悪の
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知識の木の実、つまり思考に焦点を合わせます。
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二元的な精神は、物質界を形作る現象から成り、
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感覚、知覚、自我の好み、そして別の「私」が
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目撃している感覚から成ります。この「私」と
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いう思考が、自分を自我だと思い込む根源です。
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いかなる経験も、経験者は私です。悲しみや、
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不安や、孤独感を感じるのは私です。あなたと
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話していれば、話すのは私です。世界を見て
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いれば、見るのは私です。すべて「私」を中心に
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経験します。「私」が中心人物であれば、本質的な
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調査、つまり覚醒の前提条件は、「私」の本質、
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つまり自己を探求し、認識することです。
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仏教で最も崇拝される経典の一つ、般若心経では、
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解脱するには、二元的な精神が空であることに
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気付く必要があると説いています。「私」が消えれば
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二元性自体が崩壊します。『色即是空、空即是色』。
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サマーディ状態では空虚が充足感として踊り、
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静寂は動きに、そして沈黙は音に内在します。
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人生を精神のフィルターなく直接体験します。善悪
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の知識の木の実を追い求めず、古い方法で世と接しなく
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なったとき、それは解脱であり苦しみの終わりです。
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自分の精神や無知や自我を持っていると信じるのは
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別の観点から見ているからで、最初はそう見えても
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仕方ありませんが、それが現実ではありません。
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現実は生命だけ、行動する純粋な生命しかありません。
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苦しみとは生命への抵抗で、あるものやないものに
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対する抵抗、現れるものすべてに対する抵抗です。
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自分が分離していると感じるからで、覚醒とは
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分離しているという考えから回復することです。
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宇宙のエネルギーがどう動くか観察することで、
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自我の抵抗を理解することができます。ひとつ
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の方法はリヒテンベルク図を見ることです。
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リヒテンベルク図は、高電圧の放電が物質を通過
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するときに発生するパターンです。枝分かれした
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模様が発生します。ここでは板に電流が流れています。
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次は500 万ボルトの粒子加速器を使いアクリルブロック
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に数兆個の電子を注入しました。このブロックを含め、
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すべての物質はエネルギーに抵抗し、減速させます。
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雷雨では、空気抵抗が導電路の形成と電流の流れに
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影響します。エネルギーが作る木のような模様は、
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時間をかけて媒体をたどった経路です。この枝分かれ
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したパターンは、自然内でミクロからマクロのレベル
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まで存在します。宇宙の構造自体が形や抵抗の遊びで、
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巨大な精神が一人で鬼ごっこをするかのようです。
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サムスカーラ、つまり無意識のパターンは経験の電荷が
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高いときに生じます。エネルギーが合併し、「私」の思考、
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抵抗が発生します。抵抗がなければエネルギーは通過し
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生命が流れますが、抵抗があり「私」が現れると分岐し、
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無意識の精神に新しい経路を作ります。
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これらのパターンは陰で成長し、再び明かされ、
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意識的に統合されるまで自律的に実行されます。
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私の最初の記憶は、凄く怖かったけれどなぜ怖いのか
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分からず、今にも悪いことが起きる予感がしました。
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その思いは生涯続き、20代で更に強くなりました。
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子供を4人産んだ後も、深いうつ状態に陥りました。
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そして3~4年間、何を探しているのかわからない
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まま必死に探しました。覚醒について聞いたことも、
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何なのかも知りませんでした。探していたものが外界
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では見つからないことが次第に明らかになりました。
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当時、誰もが望むような良い家庭やビジネスに恵まれ
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ながらも心の中は空虚で、うつ病を癒すために瞑想を
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発見し、それに没頭してある種の平和、深い満足感を
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感じました。そしてほんの一瞬でしたが、生まれて
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初めて不安や恐れが消えました。何が起き、何が変わり、
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なぜ恐怖感が戻ったか、完全に調査することに
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しました。様々な霊的修養法について調べ、
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覚醒や悟りのことを知り、何なのか理解しよう
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としました。そして15~20年後にやっと、
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思考を信じないことだと知りました。思考はまだ
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続きますが、恐怖感はそれを信じ、自分を人生を
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歩む一人の人間と思うことから来ており、自分は
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それ以上だと知りました。5年かけて、自分は不滅
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だという考えが根付きました。それに反する全て
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の、例えば私は駄目な親だとか、不十分だという
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心底の感情を見つめ、調査し、熟考する必要が
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ありました。そのうちに平和感が安定し、楽になり、
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喜びや愛情、時には至福さえ感じました。すべてが
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大丈夫いう深い思い、安らぎ、安全さ、今まで感じた
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ことのない、自分を愛せる、好きだという思いです。
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多くの人が覚醒の兆しを感じたあとに失います。
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得たが手放した、目覚めたが精神が戻ってきたと
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いうゲームです。これは覚醒を完全に認識しない
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時に起こります。サマーディの際に、エネルギー、
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至福、精神意識や知覚の変化、安らぎや解放感など
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心地よい状態を経験し、それを真我と勘違いします。
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覚醒の兆しを経験してから、既存の意識を認識し
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それを真の充足感の源だと認識できず、状態や経験
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を追い始めます。真我は臨時的な状態や経験では
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ありません。現象は現れては消えますが、残った
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原初の意識は常に存在します。状態や経験を追い
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続ければ、求道者がますます強調され、真実から
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更に遠ざかります。求道者が臨時的なものを
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追うのは、中毒者が一時的な高揚感を追うのと
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同じで、常に的を外し、偽の求道者は中毒者
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のように、常に危機や失敗に終わります。
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人生は中毒性の行動パターンのお祭りのようで、
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アルコールやニコチンだけでなく、社会で優勢な
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行動すべてが中毒性パターンになり得ます。例えば
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リアリティ番組、芸能人の生活、靴を買う事に対する
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依存症などです。なぜならば、極めて無意味で不自然
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な生き方から逃れる方法を探しているからです。
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しかし逃れ方を知らないため、依存症に陥ることで
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補おうとします。真実の知識は人生をより自然にし、
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自然のリズムや流れ、方向によりよく合わせる特徴
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があります。そうすれば依存症は必要なくなり、
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あなたの人生はあなたのもので、私の人生は私のもの
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という歪んだ、最も不自然な考え方をせず、より充実
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した、より健康的な生活を送ることができます。
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僕のリンゴの木の花が、人生は私のもので、永遠に
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生きたいと思うようなものです。花の期待通りに
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なれば、リンゴも、リンゴの木もなくなります。
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真実を理解すれば、自己中心的な人生、つまり
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欲望と嫌悪のパターンを絶えず養う人生から、
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より自然で流れに沿った人生へと移行します。
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ある時点でこの考えが危機に陥り、霊的
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あるいはその前に心理的探求を始めるでしょう。
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そして分離しているという幻想を超えて見る準備が
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でき、意識的な探求が始まります。この霊的探求は
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自分が気付く前に始まるかもしれませんから。
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それが意識的になれば、人生の展開を戦いでなく、
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目覚めることへの勧誘として見ることができ、
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人生に対してよりオープンになり始めます。
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また、苦難は洞察力をあおる最良のツールです。
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人は苦しまなければ深い質問をしません。苦しく
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なければ、人生の波に快楽主義的な軽薄な気持ち
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で乗るだけで、何が起きているのか考えません。
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私は誰?これら全ての目的は?いや、意味は何?
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苦しまない限り、このような質問はしません。
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なので苦しみは洞察力を促す、すごいツールです。
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人は必要以上に状況を悪化させ、不要な苦しみを作ります。
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僕はメタ苦と呼んでいます。メタ苦は、苦しいが苦しむ
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べきでないという、頭の中の小さな声から生じ、苦しみを
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倍増させます。なぜなら、今度は避けられない自然な
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苦しみに加え、自然と戦ったり本来の苦しみと戦って
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いることに対するメタ苦があるからです。目的は洞察
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につながる自然プロセスを排除することではなく、
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それと戦うことで不必要に悪化させないことです。
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苦に抵抗するのをやめればそれは苦でなくなり、
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有益なものに変化します。「ありのままを愛せ」と
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精神界でよく聞きます。自我の好みを放棄し、生命
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との絆を深めるための激しい現象だと理解する
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ことで、沸き上がる痛みを愛することができます。
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ありのままに平静を保つことで、自我構造内の抵抗
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パターンを浄化し始めます。次は降伏パラドックス
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で、抵抗するものは持続するということに気付く
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ことです。抵抗は自我を強化します。自我は抵抗
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そのものです。修行をする際に、感情を経験すべき
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でない、憎しみや怒りを感じたら退行していると
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思いますが、感情は全て経験する必要があります。
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逆説的なのは、感情を完全に受け入れ抵抗を捨てる
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ことで、それが信念、判断、好みに満ちた感情から
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評価する精神を超越した、純粋で生き生きとした
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感覚に変化することです。
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これを説明する有名な禅の話があります。ある生徒が
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賢く平静な禅僧天神に尋ねました。「師匠、奥様
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が死んだとき悲しみましたか?」「もちろんです。」
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と天神が答えたら、生徒は驚き、「禅僧は感情を
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感じないはずですよね。」と言った。天神は優しく
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微笑み答えた。「それは違います。悲しみを十分感じ、
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深く体験しました。その瞬間の真実を尊重しました。
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そして空を渡る雲のように、悲しみは通り過ぎました。
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でも空は、私の広大な存在は不変でした。」
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私の覚醒は大学院時代に始まりました。
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一連の経験が人生の目的や意味について考える
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きっかけを与えてくれました。やること全て
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に何の意味があるのか。その経験は何もせずに
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ただ気付くというものでした。強い圧力が解かれた
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ような大きな解放感があり、リラックスや爽快さ
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があり、ただ存在したことだけ覚えています。
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何でもいいから、ただ存在したい。私にとって
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大きな変化でした。まるで裏返しになったような、
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物事を見たり経験したり、人を見たり、人と
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接したり・・・。何をしても、何を言っても
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それは単に意識の表現でした。私が表現
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されている実感、いつ何を言っても、何を
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しても意識が存在するだけで、それは今も
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変わりません。その後も本質を明かし続け、
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まるで思考が流れるのが見え、必要な行動が
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あれば、体がその行動を演じるだけでした。
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以前のように何かを考え、「これをやらなければ」
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と思い、「私」がそれを実行するのとは違いました。
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それとは違い、ただ存在するようになりました。動き
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が生じ、体が道具であり、私がそれをリアルタイム
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で観察したのです。体は単に意識内に生じた行動をし、
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私は参加者であり観察者です。それが一番いい所です。
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意識は選択せず、真我は選択を超越しています。
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それを聞いて、「じゃあすべてを捨て、何も選ばずに
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洞窟にこもります」と言う人もいるでしょう。実際に
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そうした人もいます。でもそれも結局は、条件付け
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られた精神が、選択や欲望を抑制するチョイスです。
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選ぶも選ばないも、条件付けされた精神のチョイス
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ですが、その精神を意識するのは誰か、または何か?
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目覚めた後も、条件付けられた自分は好みのお茶
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を選んだり、体に良い食べ物を選んだりします。
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選ぶことをやめるのでなく、常に選び続けますが、
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それに「私」がからんでいない点が違います。
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「私」という思考がなくなっただけです。「私」が
-
選ぶのでもなく、選ぶのをやめるのでもありません。
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覚醒とは自我の透明な壁、よろいを破壊し、万物との
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同一性に気付くことです。それは素晴らしく、自分が
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怒りや痛み、悲しみに苦しんでいたのでなく、生命を
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拒絶することで苦しんでいたことを発見し、解放的
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になることであるがままの生命と一つになれます。
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苦しむよりは心地よくいたいと思うのは人間として
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当然で、人類みな苦しみよりは心地よさを選びます。
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そして意識することが心地よいと察したとき、
-
それが一般の人間の脳に記録されます。「これは
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いい、可能なんだ。」という思考が強化されます。
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段階的に徐々に覚醒することもあれば、夢から覚める
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ように、突然自分が誰だか悟る場合もあります。
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夢の中の役者として一生眠ってきたかのように。
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目覚めたままでいるには自我構造を常に浄化する
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必要があります。完全に覚醒しても警戒が必要で、
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無意識の思考が生じても平静でいることです。
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でないと無意識の精神が真実を隠すかもしれません。
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無意識が透明になる必要があります。無意識内の
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ものに直面しなければ、スピリチュアルバイパス
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を経験します。これは困難な感情、未解決の心理的
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問題や生活苦を避けるため、自分は覚醒していると
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主張することです。自我的な精神は目覚めの兆し
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を占有し、その真実に生きることを妨害します。
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ベッドに座りながら翌日に受けるマンモグラム
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のことを考えていました。毎年、極端な不安が
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生じるので、怖がること、死を怖がるのがもう
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嫌でした。そうしたら突然、「明日は怖がらずに
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やれないの?」という考え、単なる考えが生じ、
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突然、「できる」という認識が沸き上がりました。
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なぜかわかりません。何が変わったのかわかり
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ませんが、明らかに何かが変わりました。
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驚いて、今まで何年間も感じてきた恐怖が
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変わるのを認識しました。マンモグラムが
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正常で、乳がんが発見されない安心感では
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ありません。とても奇妙でした。起き上がって
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パソコンを打っていたパートナーのドアの前で
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立っていたら私の存在に気付き、「何?」と聞く
-
ので、「今、何かが起きた」と言い、説明しました。
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次第に分かったのは、恐怖に動揺しなくなっただけ
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でなく、平和になり継続的なストレスも消えました。
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精神が制止しました。外面は以前と基本的には
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同じで、覚醒だと知るのに何か月もかかりました。
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長かったです。苦しみが消えた事だけ覚えています。
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精神が静かになり、それ以来ずっとそのままです。
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覚醒自体の記憶はあり得ず、経験と現象の記憶
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だけです。記憶があれば、精神に抵抗の痕跡が
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残ります。この痕跡が最初の繰り返しで、「私」
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の始まりです。覚醒自体は経験ではないので、精神
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に痕跡を残しません。原初の意識は記憶や精神の
-
フィルターなく今に目覚めます。何らかの状態や
-
経験を追い、そこで生きようとすれば逃します。
-
現れては消え、今ないものは本質とは言えません。
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精神を介さずに、直接本質を探ってみましょう。
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精神を超えたものは精神を介して認識できません。
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内側に意識を向け今を意識してください。意識
-
自体を意識します。ここで起きる思考、感覚、
-
感情だけでなくその広大さも感じてください。
-
思考、記憶、感情、エネルギーの現象が無意識
-
から湧き上がることがあり、これは自然な浄化
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過程です。沸き上がるものに心を開いてください。
-
概念的な詳細による制限から解放された、
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精神の自然な状態にとどまってください。
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僕の覚醒は2つの違った行動から生じました。
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最初の変化は苦しみ、深い苦しみから生じ、
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思考から来ているのがわかりました。
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僕の考え方、世界や自分自身のとらえ方
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から来ていました。それから思考の本質や
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最も重要な思考者を直接的に調査しました。
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思考に縛られている者の本質です。
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その調査により、思考者という感覚が溶け、それ
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と共に僕のすべての思考が無意味になりました。
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知らなかったのは、それが起きると、純粋な、
-
無限な意識を経験することです。非常に平和で
-
苦しみを癒すものでした。それが目覚めの最初の
-
部分です。その時に経験した明晰さや平安よりも
-
更に深い経験があるとは想像もつきませんでした。
-
最初の兆候から数日間、その深い解放的で驚く
-
べき経験が、人間の次元を超えた、自分や世界と
-
信じ込んでいたいかなる形式の限界をも超えた、
-
何かへと開かれました。
-
それらがすべて解体され、残されたものは
-
言葉で表現するのは非常に難しいですが、
-
心の準備ができ自分で調査することに興味が
-
ある人なら、この本や、他の興味ある人との
-
直接的な交流により、明かすことができます。
-
精神や、マトリックスや、あなたが誰なのかは
-
誰も教えられません。計り知れず、言葉で表現でき
-
ないものを知るには、極めて静かで動きのない精神
-
が必要です。深い静寂と沈黙から、時を超え永遠で
-
計り知れないものに遭遇する可能性があります。
-
隠喩を使うと、覚醒は頭が、自我の頭が生命から
-
切断された状態です。自分が精神や体でないこと
-
が明確になりました。精神や体の中には存在
-
しませんが、生命から切断された頭は坂を転がり
-
落ちます。気を配らなくなった古いパターンや
-
計画や視点を乗せて転がり落ちます。それらが
-
展開されるのをしっかりと目撃します。
-
それらに参加しませんが、まだ続いています。
-
転がる頭は、そのうちに止まります。古い
-
カルマはもう作動せず、もはや解決すべき
-
パターンも残っていません。全部消えました。
-
これがモクシャです。解脱です。
-
最近よく見るのは、生命を肉体に宿る人として
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でなく、時には行為だけあるが行う者がいない、
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平和で静かな観察過程という漸進的な解放です。
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犬が吠えたら、それは静けさの中の吠える音。
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誰かや私の体が歩くのは、誰々なしで歩くこと。
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それに伴い、今まで時々経験した内的対話が
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静まりました。人間だという感覚から脱出する
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ことが次第に頻繁になりました。
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そんな中、今まで信じてきたこと、やってきた
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ことの意味が変わってきました。人生は不公平
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だ、困難だと思ったり、変化を祈る代わりに、
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より高い目的を果たし、より心を開き、より生命
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に参加させるものとして見るようになりました。
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事故や失敗、嫌いと思っていたものは悪くはなく、
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自分を苦しめるものでもなく、触れたことのない
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深い真実を明かすものと考えるようになりました。
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全ての祈りが「アーメン、為せば成る」になり、
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全ての願いが、何か拒否している点や、生命の展開
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を否定することで生じる苦しみが見えますように
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という願いでした。解放があり、より生命に解放的
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になるにつれ、意識的な目撃が増えました。
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覚醒は解放のほんの始まりで、終わりがありません。
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解放されればされるほど、まだ困難や、収縮や、
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恐怖だと思うことが、より高次の愛や、平和や、
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思いやりへのトランポリンであるのを実感します。
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みな、まさかと思う人も含めみな、その中にいます。
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意識が存在することは明らかに認識できます。
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それ以外はすべて推測です。よい推測であって
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も推測です。意識は理論以前の、自然界唯一の
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事実です。それ以外は全て意識内に生じる理論的
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抽象概念です。意識だけが自然の公理であり、
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唯一確実なものです。推測や、物理学・意識の
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神経学の経験的証拠に基づけば、意識が基本で
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ないことは、私は極めてあり得ないと主張します。
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意識を二次的または付随現象と考えると、様々な
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解決不可能な問題が生じます。従って意識を自然界
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の基本構成要素の少なくとも 1 つとして見るのは
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大変合理的かつ経験的な理由があります。物理学は
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基本的に知覚の科学です。世のパターンや規則性を
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説明するもので、知覚を超越するものではありません。
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物理学者が望遠鏡、顕微鏡、オシロスコープや他の
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機器を使ったとしても、出力を知覚する必要があり
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ます。つまり物理学におけるすべてのものは知覚と
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いう枠組みにフィルターされます。物理学は知覚の
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科学です。物質や物質性は単に私たちが知覚する
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世界の別の呼び名で、知覚の中身にすぎず、根本的
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に物質を超えたものを見ようとしません。生命は
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それ自体を知るための機器です。理解したいもの
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から自分を切り離すのでなく注意深く観察します。
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ニュアンスを捉えようとします。「これは何?
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なぜ起きるの?意味は何?」などと自問します。
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人生は本を読み解釈するようなものです。ただ、
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苦しみを減らすことに夢中になり、解釈の鍵と
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なる本を読むことや集中することを忘れます。
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人生の本を解釈すれば自動的に苦しまずに済む
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のに、目を開けて集中しなければ解釈できません。
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生命はそれ自体を知るための機器です。
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偉大な宗教や精神的な伝統はみな、万人の中に
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輝く無限で分割不可能な現実があり、それが「私」
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の経験や世界として現れる理解に基づいています。
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いわば万物の裏に存在の海があり、いかなるものも
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そこから発生し、生き、そこに消え去って行きます。
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これがまさにすべての偉大な宗教的伝統の
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根本原理であり、存在の統一性の認識です。
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ヘルメスの第一原理は、「すべては精神であり、
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宇宙は精神的である」ことです。どこを見てもその
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一つの精神がある。ルーミー曰く、「どこを見ても
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神の顔がある。」ミクロの世界もマクロの大宇宙も
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精神は一つ。これは人間のニューロンの画像で、
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これは宇宙の暗黒物質の分布を想定した画像です。
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ミレニアムランはマックスプランク研究所が作成した
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宇宙の暗黒物質の分布や進化のシミュレーション
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です。暗黒物質は、相互接続された繊維や節の広大
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な巣を形成し、人間の脳のニューロンや神経経路に
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そっくりです。同じ模様が自然界全体に偏在します。
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これをワンマインド、神、全てと呼ぶことができます。
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神は世界を超え、世界に先立つ外的存在では
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ありません。私たち一人一人の中に輝く「私」
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の知識であり、世界として現れる存在です。
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宗教的な言い方をすると、世界は神の言葉ロゴスの
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現れであり、私たちは神の精神内の局部的精神です。
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では主観的で普遍的なフィールド、普遍的な意識が
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なぜ多数あるように見えるのか。私はあなたの考えを
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読めませんし、あなたも恐らく私の考えを読めません。
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アンドロメダ銀河や中国の状況さえわからず、自然全体
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を経験しないのに、一つの精神がなぜ多数に見えるのか。
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精神医学では解離と呼ばれる自然過程があります。
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1 つの精神が複数の意識に分裂するように見える現象
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です。神経画像で人間がこれを経験する決定的な
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証拠があり、現在意識の神経科学における主要理論
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である、統合情報理論に基づく解離の明確な概念的
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説明が成立しつつあると思います。
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解離境界が形成されると、その境界の向こう側の
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ものは知覚を通してしか見ることができません。
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知覚するのは物質・物質性です。言い換えれば、
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物質・物質性は、解離境界の向こう側で起きる
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意識的な過程の意識的な出現です。これらの過程
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を現代理論で説明するか五蘊のような形で説明する
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かは大切でなく、大切なのは通常無意識の過程に
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意識を向けることです。それにより自己構造内の
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抵抗が消え、「私」の無意識的な動作が消えます。
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自分は肉体だと知覚したり、体感を知覚したり、
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物体や物事を概念化したり、それらを認識したり
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好みを持ったり、すべてを見ている目撃者がいる
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と感じたり、これらすべての精神プロセスは自己
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のいない空虚なものだと気付くことです。現象から
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自分を切り離してあるがままに受け入れることです。
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生命に背を向けるのでなく、生命と親密になることです。
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意識が根本的で物質性に先立つという僕の理解は、
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長年にわたり、この世に生きる人間としての意味を
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根本的に変えてきました。僕の変化はゆっくりでした。
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最初は頭の中での概念的な理解だけでしたが、
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それが体に染み込んで感情や気持ちを調整し、
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すべてが変わりました。充実した人生の意味、
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目指すべき目標、自己認識、他の生物との関係など
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すべてが変わります。地位、権力、お金といった
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個人的な目標は消え去りました。僕の人生は今まで
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もこれからも、自分でなく自然のためのものであり、
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自分は自然の単なる一つの地域的顕現にすぎない
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という認識は、個人的目標を達成しようとして
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生じる不安や、その目標を達成できなかったとき
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に生じる失望感から大きく解放してくれます。
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それらはすべて消えました。今は自然界に奉仕して
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生きています。自然界が僕を通してしたいことに心を
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開くので、奴隷の如く奉仕に縛られるように聞こえる
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かもしれませんが、そうではなく、自分を個人的に幸せ
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にしようという抑圧的で圧倒的な責任から逃れた気分
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です。自分の人生なら幸せになる責任は自分にある
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というのは、人間の最も抑圧的な考えです。失敗を
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すれば自分の責任だと後悔し始めます。それはもう
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消えました。僕の人生で一つ変わったことです。真実
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を深く理解するのは共感、相互尊重、非利己的な目標
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や、中毒性の低い行動パターンに直接繋がります。
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人類の理解がもっと深くなり、それがもっと広まれば、
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生命がよくなることは間違いありません。
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世の諸問題の解決策は、自己利益のみのために行動
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する自我が問題の根元だと認知することです。自我が
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政治、宗教、経済、教育など、何に参加しようが、
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「自分」という別個の存在があるという間違った
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前提で行動する限り、苦しみと分離は永続します。
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人類にとって今唯一の解決策は目覚めることです。
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仏教では、自己がもう別個のものでもなく、かつ
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自己以外の何者でもなくなることが涅槃であり、
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それが自己中心的な活動、妄想、夢の停止であり
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人生という夢の中の役者からの目覚めです。聖書
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には「言は肉体となり、私たちのうちに宿った」と
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記されており、言はよく、「永遠」「真実」「直接の
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啓示」など深い意味を持つ古代の言葉ロゴスと訳され
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ます。ロゴス、キリスト意識、または仏性を通して、
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神の精神が明かされると言えるでしょう。